ふと感じてしまう嫌悪は悪か

世界、というのはなんでもありなのだなぁ。

そして声が大きいほどその主張は正しいとされる気がしている。

アニマルライツという言葉で畜産を冒涜(適切な言葉が見つからなかった)してはいまいか。

まあ私はごく一般的な社会人で、ペットも飼っていないので何を強いられている訳でもないんだけど。

 

 

これは決して権利を冒涜する趣旨でもなんでもない、わたし個人の感じている気持ち悪さについて正直に書いた文章だと思って欲しい。

そこだけは勘違いしないでほしい。

それらの主張はどちらも正義なのだから。

 

 

わたしのじーさんの話をしよう。

第二次世界大戦のころに獣医を志し、学生でありながら陸軍の馬の世話をしていた人だ。

戦争が終わってから、彼は畜産を始めた。

関西のニュータウン開発が進む片田舎だった。

都心から車で30分ほどの、大きな幹線道路のほど近くで、彼は乳牛を100頭くらい飼っていて、大手の牛乳屋さんに牛乳を売って暮らしていた。

時にはその牛を食肉として売ったりもしていた。産まれたばかりの子牛もいた。

この間まで牛舎にいた子牛がいなくなっているのは子供ながらに切ないものがあった。ドナドナされていく子牛を見送ったこともある。

しかしわたしは「美味しく食べられているといいな」と思ったのだ。

だってその子牛は、食べられるために生まれ、食べられるために死にゆくのだから。

せめて美味しかったと言われていて欲しいではないか。

 

畜産、というのは生業だ。

生業であり、生命の営みだ。

と、わたしは思う。

狩りをし、その獲物を喰らう肉食動物となんら変わらない、食物連鎖の一部に過ぎない。

なかには劣悪な環境で生命を生命とも思わぬやり方で畜産を営む者もいるだろう。

だが、私の知る畜産の世界は、毎日休みなく牛の世話をして、愛情を持った人達ばかりだった。

夜中にお産が始まれば家族総出で子牛を誕生させた。

祖母はいつも朝くらいうちから牛舎にこもり、牛に餌をやり、乳を搾った。祖父は病気の牛の世話をし、狭い敷地でも生業として成り立つ畜産を実現させた。

それは、果たして悪だろうか。

それでも畜産は動物の権利に配慮しない!  と責め立てられるべき産業であろうか。

わたしはそうは思わない。

 

祖父が亡くなったあと、母がわたしに話してくれたことがある。

「あの人は牛が本当に好きだった。牛の目はまるくて、純粋で、とても可愛いだろう。だから俺は牛が好きなんだ。って、いつも言ってた」

これを聞いた時に、これが全てだと思った。

彼が愛した牛を育てることで、彼は彼の娘を育てた。たくさんの孫に囲まれ、玄孫を抱き、愛する妻に看取られて命を終えた。

きっと幸せな人生だったと思う。

だって、孫のわたしがこんなにも彼を恋しく思うのだ。愛に溢れた人だった。

だが、畜産を悪とするならば彼は悪人なのだ。

それでひと時代を築いた極悪人である。

 

システムとしては悪かもしれない。

食べるために産ませ、食べるために育て、食べるために殺すことは悪かもしれない。

しかし、それが生命の営みだと私は思う。

人間だって所詮は動物なのだ。

この大きな地球の中で、食物連鎖のひと角をになう、生命のひとつでしかないのだ。

理性があるから、可哀想だから、そうやって憐れむこと自体が人間の傲慢ではなかろうか。

 

食べられるために殺されたものを、残さず美味しく食べること。

 

それこそが正義だと、わたしは思う。

まあ、これは私の正義なので誰かと議論がしたいわけじゃないよ。

そういう考え方もあるかもしれないって思ってくれればそれで。